面会交流における理想と苦悩

このたび,面会交流に関する裁判について,平成27年7月25日付産経ニュースに注目すべき記事が載っていました。

同記事によると,「別居中の妻に長女との面会を妨げられたとして愛知県内の男性が面会の実現を求めた裁判で、妻が正当な理由なく面会させなかった場合に科される間接強制の制 裁金を4倍に増やす決定が名古屋高裁であったことが25日、分かった。親子の面会で制裁金が大幅に増額されるのは異例。面会交流調停の申し立てが増加する 中、面会を妨げた親の親権変更や弁護士への損害賠償命令などの司法判断が相次いでおり、専門家は「子供の利益を最優先にする民法改正の影響だ」と指摘して いる。」(以上,上記産経ニュースの記事を引用。)とのことです。

現時点では決定文の全文を確認することはできていませんが,この裁判が確定したら,今後の面会交流実務には大きな影響があると思われます。

面会交流については,平成24年改正の民法766条1項で「父母が協議上の離婚をするときは,・・・父又は母と子との面会及びその他の交流・・・について必要な事項」を「子の利益を最も優先して考慮して」定めるものとしています。この規定から,非監護親(子どもの養育及び監護を担当しない親)と子どもの面会交流は,子どもの成長にとって有益であるという前提が存在しており,実務上も面会交流は可能な限り実現するよう努力する取扱いがされています。

では,面会交流が子どもの成長にとって有益であるといえるのはどのような理由からでしょうか?

この点については,離婚という大人の一方的な都合で親子関係を引き裂かれた子どもにとって,非監護親との面会交流は家族としてのつながりを再確認し,自分という存在を肯定することができるという,子どもの人格形成にとっての有効性が理由の一つとして挙げられます。

また,その他の理由としては,非監護親と子どもが面会することで,子どもから大人へ「発達」する過程において生じる数々の葛藤・課題を乗り越えるための良き助言,見本を得ることができ,これにより葛藤・課題を乗り越えて自分という存在に自信をもつことができるようになることが挙げられます。

以上のように,非監護親と子どもの面会交流には,子どもの人格の発達にとって重要な意味があることから,できる限りこれを実現する必要があります。

しかし,他方,面会交流は飽くまで子どもの人格の発達という「目的」に対する「手段」に過ぎません。そして,面会交流が子どもの人格の発達にとって本当に有用であるか,疑問視される場面がないわけではありません。

これがDVであるとか児童虐待の事例であれば,客観的に事態を把握でき,対処の手段もある点で,子どもの人格を守るために面会交流を否定するという結論を導きやすくなります。

これに対し,近時「モラハラ」といわれている事案については,非常に判断が難しくなります。

ここで,「モラハラ」には様々なニュアンスで用いられる言葉であるため,画一的な定義は難しいです。

私なりの理解としては,「行為者が相手方に対する絶対的優位性を誇示,あるいはこれを獲得するために行われる,相手方の人格を否定する有形無形の行為一切(DVや虐待を除く)」と考えたいと思います。

このような人は次のような特徴があります。

まず,言っていることとやっていることが正反対ということが非常に多いです。配偶者には「もっと自由にふるまいなさい。」と言いながら,配偶者の一挙手一投足を見張り,気にくわないことを見つければそれがどんなに些細なことでも文句を言います。それも,ことさら相手方の人格を否定するようなキツい言葉で責め立てます(「こんなことも分からないのか。バカな奴だな。」など。)。

また,自分の意見は常に全て正しく,それ以外は全て間違っていると考えます。それにもかかわらず,実際に自分が選択を間違えて不都合なことが起きた場合には自分では責任をとらず,全て配偶者に押しつけます(「自分の意見にお前も賛成した。きちんと確認しなかったお前が悪い。」)。

更に,配偶者にコンプレックスを植え付け,それを大きくさせる言葉で相手を責め立てたりします(「だらしがない。」,「頭が悪い。」,「行動が遅い」,「お前は人の気持ちが分からない奴だ。」など。)。

これらはモラハラの特徴のごく一部ですが,いずれの場合でも共通するのは,自分が絶対的な君主で,それ以外の関係者は全て従者,ひどいときには精神的奴隷ともいうべき明確な上下関係,主従関係を強く望んでいるという点,そして,自分は相手方の言動を全人格レベルでコントロールしなければ気が済まないという点です。

このような特徴は,親子関係においても例外ではありません。むしろ,親子関係というのは親と子だけで完結する閉鎖的な関係で,大人対子どもと力関係も明白であることから,このような傾向は一層強くなります。そのような関係の下では,親は皇帝であり,子どもは奴隷でしかありません。親が子どものことを人格をもった一個人とみることは期待できず,子どもにとっては皇帝の命令に盲従することが求められます。

このような不健康な親子関係においては,無理して子どもを親と面会させることは,子どもに奴隷としてのトラウマの日々を思い出させるとともに,自分の気持ちが尊重されないということでの無力感を覚えさせ,かえって発達において重大な支障になるものと考えます。

少なくとも,子どもがある程度の年月を経て,しかるべき発達課題をクリアした段階で面会交流を試みるという方法も選択肢があるべきだと考えます。

ダン・ニューハースは「不幸にする親 人生を奪われる子ども」(講談社+α文庫,訳:玉置悟)の「親との関係の持ち方を変えるには」という章の中で,上記のような不健康な親子関係から子ども(であった人)の人格を取り戻す方法として,親との間で健全な境界線を引くことの重要性を主張します。そして,この境界線の引き方として,「たとえば,親と会うのがあまりに苦痛な場合は延期してもいいですし,どうしても会わなくてはならない場合には,会ってもあまり口をきかないでいることもできます。相手がどう思おうが,何を言おうが,心を遠ざけてしまうこともできます。しばらく接触しない“試験期間”を設けることもできます。いわば親から休暇をとるようなものです。そうしたからといって,そこで永久に関係を断つわけではありません・・・コントロールばかりする親のいる家で育った人にとって,精神的な生存を守るために行動できるようになることは,人生の大きな転機となります。それはまた,「一人の人間として生きている自信」をつけることになるでしょう。」(以上,同著194ページ以降を引用。)と述べています。このアドバイスは大人となった子どもに対するものとしてされたものですが,この「試験期間」や「休暇」はつい最近までコントールばかりする親の下で育ってきた子どもにこそ,重要な意味をもっていると思います。

ここで,面会交流の実務について私の感想を述べますと,実務では面会交流を積極的に認めていく方針であり,私自身,その方針自体は歓迎すべきものであると考えています。

しかし,実際の面会交流の審判に当たっては,現在は面会交流を認める時勢の流れがあるから,とりあえず何とか面会交流を実現させようというような傾向がないとはいえません。面会交流自体が「目的」化してしまっていると感じることがあります。

この点については,DVに関する指摘ではあるものの,「性と法律―変わったこと,変えたいこと」(角田由紀子著,岩波新書)は90ページ以降において,「調停委員や家裁の裁判官は,子どもの被害について教育を受けているのだろうか。子どもには親に会う「義務」があるかのごとき発想の人に出会う現場にいる人間としては,心許ないところがある。子どもにとっては,一生の方向に関係する問題であることが,もっと認識されるべきである。それがなければ,場合によっては,家裁が暴力の連鎖の維持に手を貸すことになるのではないかと思う。家裁は,ドメスティック・バイオレンスにさらされた子どもが受けた被害をもっと理解する必要がある。それには,法律家の知見だけではあまりにも限界がある。その限界をわきまえて,たとえば小児精神科医など子どもの現場に詳しい専門家の意見を聞き,関係する分野の人たちとの連携と交流を図るべきであろう。同じことは,家族に関する事件を扱う弁護士にも当てはまることは,言うまでもない。」(以上,同著を引用。)という御指摘があり大変参考になります(もちろん,現場の関係者の方々にはそれぞれお忙しい中様々なことを考慮していただき,その活動には敬服しております。)。

離婚後における非監護親と子ども関係は,それが円満であれば面会交流を実施することに全く異存はなく,私自身,そのような事案であれば,面会交流を実現するべく監護親にその意義を丁寧に説明しています。

しかし,頑なに子どもが面会交流に嫌悪感を示すような場合においては,私自身,面会交流を実現することが子どもの人格形成や発達に悪影響を与えないかと自問自答します。それでも実務的には面会交流を認める傾向があることを監護親に説明しなければならないときには大変な苦悩を抱かざるを得ません。

先の角田由紀子氏の著書にもあるように,子どもには親に会う「義務」があるわけではありません。このことからすれば,飽くまで面会交流は子の人格形成,発達促進のために行われる一手段であること,そのため,面会交流の実施に当たっては子どもの意見を第一に尊重すること,逆に非監護親の要望などは補充的な考慮要素にとどめられるべきではないかと思います。

その意味で,今回の決定がどのような経緯でなされたものであるのか,私自身もよく吟味し,これから先の事案を扱う際の参考としたいと思います。

なお,今回の記事を作成するに当たって,上記の書籍以外にもスーザン・フォワード著の「毒になる親 一生苦しむ子供」,クレイグ・ナッケン著の「やめられない心 毒になる「依存」」(いずれも訳:玉置悟,講談社+α文庫),外山紀子・外山美樹著の「やさしい発達と科学」(有斐閣アルマ),片田珠美著の「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)を参考にしました。いずれも親子関係や子どもの発達の問題について易しく記載されているので,皆様も一度ご覧になることをおすすめいたします。