DV被害をめぐる葛藤

早くも年末です。結局今年もあんまり更新できませんでした。

今年は昨年にもまして多くの相談をいただきました。地方の法曹需要を改めて体感しています。

本当はもっとスピーディに事件処理をしてより多くの相談を受けたいと思っておりますが、残念ながらなかなかキャパシティの問題は解決しません。

この点はもっと改善する方法を探さなければなりません。

 

話は変わりますが、私も弁護士である以上DVやモラハラの事案を取り扱うことが少なくありません。

というよりも、私が受ける離婚相談の半分くらいは程度の差はあれDVやモラハラが絡んでいます。

実はこの問題、深刻なケースがものすごく多い割に、できることが案外少なくてものすごく歯がゆく、腹立たしい思いをしています。

その問題にはいろいろなものがあります。

 

まず、被害者が自分のDVやモラハラの被害をさっぱり認識していないところから問題がスタートします。

第三者から見ればパートナーの言い分はめちゃくちゃで被害者はもっと怒っていいはずなのに、そうしない。

逆にパートナーからあれこれ言いくるめらてパートナーを許してしまうということが毎度のことのようにあります。

例えばこういうケースです。

その女性は10年くらい夫からのDVや暴言に耐えてきたけれど、とうとう我慢できなくなって家を出ることにした。

しかし夫からは「先にきちんと話合いをすべきだ。」とか、「俺がこんなに反省しているのに何が不満なのか。」と言われた。

女性は私に「家を飛び出してきた自分から離婚をしていいのでしょうか、夫から慰謝料を請求されませんか。」と相談した。

これに対して私は女性に対し、「そのお話が本当であれば離婚も慰謝料も請求できますよ。」とアドバイスする。

ところが女性は「いや、自分にも至らない点があった。」とか、「夫もたまには優しいことがある。」とパートナーをかばうことを言い出す。

私の方は「それはDV加害者やモラ男の典型的な手口ですよ。ご主人はそうやってあなたが自分から離れないようにしてるんです。」と説明する。

1時間も説得すれば、たいていの方は少し落ち着くけれども、中には頑として「自分が悪い。」と言って譲らない人もいる。

結局、その人は離婚の相談に来たのに最後には「一度夫と相談する。」と言って帰ってしまう。

こんなことが結構あります。

 

私としては、アメリカの心理カウンセラーや日本の臨床心理士の文献を紹介したり、類似のケースの取り上げるなどの工夫をしています。

特にアメリカの議論は非常に先進的で(日本が遅れてるだけですが)、これを引用紹介するだけでも相談者のDVへの理解や不安緩和に役立つことが多いです。

それでも、何割かの相談者はその場では離婚などは決めきらない、パートナーともう一度話し合うと言って帰ってしまいます。

私自身の力の限界とともに、DV事案における束縛の強さを思い知らされます。

 

次の問題としてはDVから逃げるための社会資源がさっぱり役に立たないという点です。

まずもって警察は役に立ちません。DVやモラハラ問題は密行性が高く犯罪性を現認できるケースは非常に少ない。そもそも被害認識が乏しい被害者自身がパートナーをかばってしまう。

そのような状況では警察が私生活に介入するということは現実問題として期待できません。

次に女性相談センターも役に立たない。霧島市からだと鹿児島にある女性相談センターはアクセスが悪すぎて緊急時に頼るには不便すぎます。

弁護士は相談はDV被害者への居住先を提供できないのでやはり役に立たない。

結局、被害者は逃げ場がないため、あきらめの境地で被害を甘受するという事態があります。

これは私の感覚としてもそうですが、内閣府の調査でも被害者の半数は相談せず、相談者のうち警察や相談センター、弁護士に相談するのは被害者の4パーセントしかいないそうです。

 

さらに、本当に情けないことですが、法律家という人種自体がDV問題に対して幼稚な認識しかもっていないという問題もあります。

まずもって被害者心理を分かっていない。「そんなに嫌ならどうして逃げないのか。」、「怒らせるようなことをするからそんなことになる。」、「夫(妻)側にも言い分がある。」などの言葉を平気で言います。

また、暴力を伴わないハラスメントに関しては「そんなに怖がる必要はない。」だとか、「あなたの気にしすぎが」などと言う。

素人なら単なる放言で許されるかもしれませんが、法律家にそんなことではいけない。

そんなことでは被害者は一層望みを薄くして相談に来なくなる。そうなれば加害者は一層図に乗ることにもなる。

だから法律家はまず何よりも被害者への受容と共感が必要なのです。

しかし、現実にはそれができていない。その最大の理由は、常識や法律家の直感とやらを信奉して被害者心理というものを体系的・学術的に勉強しようとしないからだと思います。

 

ハラスメントをとりまく加害者と被害者の心理は常識では計ることができません。

どうして被害者は逃げないのかと言うと、逃げられないからです。それは環境的に逃げることができないというものもありますし、加害者による被害者への心理的な束縛が見事だからというものもあります。

このあたりはアメリカの心理学者が書いた本なんかには新書や文庫レベルでも相当深い理解ができるものが多数あります。

そのため、ほんの少し、人間のパーソナリティに興味をもって本屋で新書なり文庫なりで知識を仕入れれば、DVをめぐる人間の心理や思考が常識と全然違うことなんて簡単に理解できます。

ところが現実は、法律家ほどアナクロニズムに満ちた人間観をもった職業はない。弁護士は当然だが裁判所もそうだったときは本当にがっかりします。法律は分かっても人間の心理は分からないのかと。それでよく事実認定できるものだと腹立たしくなります。

法律家という人間は温室育ちなので気が休まらない環境に何年も曝されることがもたらす負の影響というものが分からない。それは仕方ないにしても、そのことを本などを通じて勉強しようともしない。

自分は古くさい人間観しかないくせにそれを自覚せず他人には説教をするという人種が実に多い。

それではどうしてそういった知識を得ようとしないのかというと、一つには日本の心理学に全然権威がないからだと考えます。

 

心理学とは実はデータを重要視する優れて客観的な学問であり、少し入門書を読むだけでもいかに常識や直感というものが当てにならないのかを思い知らされ、本当に勉強になります。

だから本当は法律家は心理学の基礎くらいは勉強して客観的・科学的に人間の心理を捉える訓練をすることが望ましいのです。

しかし、万人が心理学やそれに類似する勉強をするわけではありません。特に日本という国は客観的なデータを軽んずる傾向が強い。

だからどうしてもプラグマティズムを大事にするアメリカに比べて心理学が浸透せず、直感に頼る古くさい人間観から脱却できないのです。

その結果、不利益を被るのは誰か。罪悪感を増幅させられ被害申告を躊躇する被害者です。

利益を受けるのは誰か。いつまでも増長し反省をしない加害者です。

そう考えたとき、私は自分の力の限界を悔しく思うとともに、自分の能力を過信して古典的な人間観しかもたない司法関係者が許せなくなります。

 

こんな記事を書いたのは、ここ最近DV問題に関しては進め方に行き詰まったり、腹立たしいことがあったりしたからでした。

司法関係者はいかに自分たちがおめでたい頭をしているのかを折に触れ恥じ入り、反省する必要があります。

 

そういう私自身も自己批判と研鑽を積みながら、人間の心理・思考の本質を理解できるよう努力していきたいと考えています。

面会交流における理想と苦悩

このたび,面会交流に関する裁判について,平成27年7月25日付産経ニュースに注目すべき記事が載っていました。

同記事によると,「別居中の妻に長女との面会を妨げられたとして愛知県内の男性が面会の実現を求めた裁判で、妻が正当な理由なく面会させなかった場合に科される間接強制の制 裁金を4倍に増やす決定が名古屋高裁であったことが25日、分かった。親子の面会で制裁金が大幅に増額されるのは異例。面会交流調停の申し立てが増加する 中、面会を妨げた親の親権変更や弁護士への損害賠償命令などの司法判断が相次いでおり、専門家は「子供の利益を最優先にする民法改正の影響だ」と指摘して いる。」(以上,上記産経ニュースの記事を引用。)とのことです。

現時点では決定文の全文を確認することはできていませんが,この裁判が確定したら,今後の面会交流実務には大きな影響があると思われます。

面会交流については,平成24年改正の民法766条1項で「父母が協議上の離婚をするときは,・・・父又は母と子との面会及びその他の交流・・・について必要な事項」を「子の利益を最も優先して考慮して」定めるものとしています。この規定から,非監護親(子どもの養育及び監護を担当しない親)と子どもの面会交流は,子どもの成長にとって有益であるという前提が存在しており,実務上も面会交流は可能な限り実現するよう努力する取扱いがされています。

では,面会交流が子どもの成長にとって有益であるといえるのはどのような理由からでしょうか?

この点については,離婚という大人の一方的な都合で親子関係を引き裂かれた子どもにとって,非監護親との面会交流は家族としてのつながりを再確認し,自分という存在を肯定することができるという,子どもの人格形成にとっての有効性が理由の一つとして挙げられます。

また,その他の理由としては,非監護親と子どもが面会することで,子どもから大人へ「発達」する過程において生じる数々の葛藤・課題を乗り越えるための良き助言,見本を得ることができ,これにより葛藤・課題を乗り越えて自分という存在に自信をもつことができるようになることが挙げられます。

以上のように,非監護親と子どもの面会交流には,子どもの人格の発達にとって重要な意味があることから,できる限りこれを実現する必要があります。

しかし,他方,面会交流は飽くまで子どもの人格の発達という「目的」に対する「手段」に過ぎません。そして,面会交流が子どもの人格の発達にとって本当に有用であるか,疑問視される場面がないわけではありません。

これがDVであるとか児童虐待の事例であれば,客観的に事態を把握でき,対処の手段もある点で,子どもの人格を守るために面会交流を否定するという結論を導きやすくなります。

これに対し,近時「モラハラ」といわれている事案については,非常に判断が難しくなります。

ここで,「モラハラ」には様々なニュアンスで用いられる言葉であるため,画一的な定義は難しいです。

私なりの理解としては,「行為者が相手方に対する絶対的優位性を誇示,あるいはこれを獲得するために行われる,相手方の人格を否定する有形無形の行為一切(DVや虐待を除く)」と考えたいと思います。

このような人は次のような特徴があります。

まず,言っていることとやっていることが正反対ということが非常に多いです。配偶者には「もっと自由にふるまいなさい。」と言いながら,配偶者の一挙手一投足を見張り,気にくわないことを見つければそれがどんなに些細なことでも文句を言います。それも,ことさら相手方の人格を否定するようなキツい言葉で責め立てます(「こんなことも分からないのか。バカな奴だな。」など。)。

また,自分の意見は常に全て正しく,それ以外は全て間違っていると考えます。それにもかかわらず,実際に自分が選択を間違えて不都合なことが起きた場合には自分では責任をとらず,全て配偶者に押しつけます(「自分の意見にお前も賛成した。きちんと確認しなかったお前が悪い。」)。

更に,配偶者にコンプレックスを植え付け,それを大きくさせる言葉で相手を責め立てたりします(「だらしがない。」,「頭が悪い。」,「行動が遅い」,「お前は人の気持ちが分からない奴だ。」など。)。

これらはモラハラの特徴のごく一部ですが,いずれの場合でも共通するのは,自分が絶対的な君主で,それ以外の関係者は全て従者,ひどいときには精神的奴隷ともいうべき明確な上下関係,主従関係を強く望んでいるという点,そして,自分は相手方の言動を全人格レベルでコントロールしなければ気が済まないという点です。

このような特徴は,親子関係においても例外ではありません。むしろ,親子関係というのは親と子だけで完結する閉鎖的な関係で,大人対子どもと力関係も明白であることから,このような傾向は一層強くなります。そのような関係の下では,親は皇帝であり,子どもは奴隷でしかありません。親が子どものことを人格をもった一個人とみることは期待できず,子どもにとっては皇帝の命令に盲従することが求められます。

このような不健康な親子関係においては,無理して子どもを親と面会させることは,子どもに奴隷としてのトラウマの日々を思い出させるとともに,自分の気持ちが尊重されないということでの無力感を覚えさせ,かえって発達において重大な支障になるものと考えます。

少なくとも,子どもがある程度の年月を経て,しかるべき発達課題をクリアした段階で面会交流を試みるという方法も選択肢があるべきだと考えます。

ダン・ニューハースは「不幸にする親 人生を奪われる子ども」(講談社+α文庫,訳:玉置悟)の「親との関係の持ち方を変えるには」という章の中で,上記のような不健康な親子関係から子ども(であった人)の人格を取り戻す方法として,親との間で健全な境界線を引くことの重要性を主張します。そして,この境界線の引き方として,「たとえば,親と会うのがあまりに苦痛な場合は延期してもいいですし,どうしても会わなくてはならない場合には,会ってもあまり口をきかないでいることもできます。相手がどう思おうが,何を言おうが,心を遠ざけてしまうこともできます。しばらく接触しない“試験期間”を設けることもできます。いわば親から休暇をとるようなものです。そうしたからといって,そこで永久に関係を断つわけではありません・・・コントロールばかりする親のいる家で育った人にとって,精神的な生存を守るために行動できるようになることは,人生の大きな転機となります。それはまた,「一人の人間として生きている自信」をつけることになるでしょう。」(以上,同著194ページ以降を引用。)と述べています。このアドバイスは大人となった子どもに対するものとしてされたものですが,この「試験期間」や「休暇」はつい最近までコントールばかりする親の下で育ってきた子どもにこそ,重要な意味をもっていると思います。

ここで,面会交流の実務について私の感想を述べますと,実務では面会交流を積極的に認めていく方針であり,私自身,その方針自体は歓迎すべきものであると考えています。

しかし,実際の面会交流の審判に当たっては,現在は面会交流を認める時勢の流れがあるから,とりあえず何とか面会交流を実現させようというような傾向がないとはいえません。面会交流自体が「目的」化してしまっていると感じることがあります。

この点については,DVに関する指摘ではあるものの,「性と法律―変わったこと,変えたいこと」(角田由紀子著,岩波新書)は90ページ以降において,「調停委員や家裁の裁判官は,子どもの被害について教育を受けているのだろうか。子どもには親に会う「義務」があるかのごとき発想の人に出会う現場にいる人間としては,心許ないところがある。子どもにとっては,一生の方向に関係する問題であることが,もっと認識されるべきである。それがなければ,場合によっては,家裁が暴力の連鎖の維持に手を貸すことになるのではないかと思う。家裁は,ドメスティック・バイオレンスにさらされた子どもが受けた被害をもっと理解する必要がある。それには,法律家の知見だけではあまりにも限界がある。その限界をわきまえて,たとえば小児精神科医など子どもの現場に詳しい専門家の意見を聞き,関係する分野の人たちとの連携と交流を図るべきであろう。同じことは,家族に関する事件を扱う弁護士にも当てはまることは,言うまでもない。」(以上,同著を引用。)という御指摘があり大変参考になります(もちろん,現場の関係者の方々にはそれぞれお忙しい中様々なことを考慮していただき,その活動には敬服しております。)。

離婚後における非監護親と子ども関係は,それが円満であれば面会交流を実施することに全く異存はなく,私自身,そのような事案であれば,面会交流を実現するべく監護親にその意義を丁寧に説明しています。

しかし,頑なに子どもが面会交流に嫌悪感を示すような場合においては,私自身,面会交流を実現することが子どもの人格形成や発達に悪影響を与えないかと自問自答します。それでも実務的には面会交流を認める傾向があることを監護親に説明しなければならないときには大変な苦悩を抱かざるを得ません。

先の角田由紀子氏の著書にもあるように,子どもには親に会う「義務」があるわけではありません。このことからすれば,飽くまで面会交流は子の人格形成,発達促進のために行われる一手段であること,そのため,面会交流の実施に当たっては子どもの意見を第一に尊重すること,逆に非監護親の要望などは補充的な考慮要素にとどめられるべきではないかと思います。

その意味で,今回の決定がどのような経緯でなされたものであるのか,私自身もよく吟味し,これから先の事案を扱う際の参考としたいと思います。

なお,今回の記事を作成するに当たって,上記の書籍以外にもスーザン・フォワード著の「毒になる親 一生苦しむ子供」,クレイグ・ナッケン著の「やめられない心 毒になる「依存」」(いずれも訳:玉置悟,講談社+α文庫),外山紀子・外山美樹著の「やさしい発達と科学」(有斐閣アルマ),片田珠美著の「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)を参考にしました。いずれも親子関係や子どもの発達の問題について易しく記載されているので,皆様も一度ご覧になることをおすすめいたします。