医療従事者と残業代

本当に早いもので,今年もあと数時間でおしまいです。

今年も日々の業務に追われるばかりでなかなか記事の更新ができませんでした。

 

そんな中,今年は7月7日に最高裁で医師の残業代に関する重要な判例が出るなど医療従事者の労働問題については結構重要な1年になったのではないかと思います。

来年は,医療従事者の労働環境が健康保険制度を巻き込んで様々な議論を呼び起こすかもしれません。

今回は,この点について思ったことを書きたいと思います。

 

まず,先に挙げた7月7日の最高裁判決の内容について説明しますと,この事例では高額年俸(年俸1,700万円)が保障されている医師が残業代を請求できるかという点が問題となりました。

 

この点,1審と2審は,「残業代は年俸1,700万円の中に織り込み済み」という考えで医師側の請求を認めませんでした。

 

しかし,最高裁は「〔年俸1700万円の内訳について〕時間外労働等に対する割増賃金に当たる部分は明らかにされていなかった」ことから,「年俸について,通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することはできない」ため,年俸の中に残業代は含まれてはいない。そうである以上,病院側は残業代を支払わなければならないとしました。

 

この「基本給と残業代の部分を明確に区別できない場合には固定残業代制は無効」という考えは,実は以前から固定残業代制の有効性を判断する際に用いられている判例上の基準でした。7月7日の最高裁判例は,この基準は高額年俸が保障されている医師の場合にも同様に適用されると判断した点で重要な意味がありました。

 

この最高裁の判決により,医師は広く残業代が請求できるようになる一方で,病院側としては医師に支払う残業代が青天井になるリスクが大きくなったといえます。その理由は次のとおりです。

 

まず,①当直勤務がある医師の場合,その当直時間の全てが残業時間とされ,その時間に対応した残業代を支払わなければならなくなる可能性があります。

なぜなら,医師の当直とは頻繁に誰かしらから呼び出しがあるものであり,その場合にはいつでも患者の元に駆けつけなければならない立場にあるからです。

このような場合,医師の当直時間は,仮にその医師が実際には仕事をしていなくても労働時間として扱われることになります(これを休憩時間と分けて「手待ち時間」といいます。)。

その結果,病院側は医師の当直時間について各種の割増賃金を支払わなければならないことになります(なお,当直制勤務については労働基準法41条3号という例外がありますが,これも簡単には適用できないため結局残業代の支払い義務を免れないケースが見受けられます。)。

 

また,②医師の場合,そもそもの基本給が高いため,割増率を乗じると一層残業代が高額化します。

 

さらに,③病院側で電子カルテが導入している場合,医師がカルテに書き込みを行った時間を改ざんすることは簡単ではありません。このような場合,医師側は労働時間を証明しやすいという特徴があります。

 

加えて,④病院が残業代訴訟で敗訴した場合,医師側は診療報酬請求権を差し押さえて残業代を回収することが可能です。この場合,病院側は単に残業代の支払わされるだけではなく,社会的にも大きく信用を失うことになります。

結果,病院側としては裁判で認められた残業代を実際に支払わざるを得ません。

 

以上のように,医師側から残業代を請求された場合,病院側は非常に大きな経済的負担と社会的制裁を強いられることになります。

 

ところで,残業代が問題になるのは何も医師だけではありません。看護師,薬剤師,理学療法士,作業療法士などの各種の医療従事者たちも,1日8時間,週40時間労働(一部小規模の医療機関だと週44時間)を超えれば残業代を請求できるのが基本です。

そのため,病院側はもし1件でも残業代トラブルを起こすと,次から次へと残業代の支払いに応じなければならないということになります。

 

したがって,医療従事者の残業代請求は,実は弁護士にとって結構な「鉱脈」になるのかなと考えています。

 

ただ,もし日本における全ての医療従事者たちの人件費を労働基準法の規定どおりに算出したとしたら,果たして日本の健康保険制度は維持できるのだろうか,という懸念は感じます。

なぜなら,現状,日本の医療従事者の方々が残業代を問題化しない理由は,他の職業に比べてまだしも安定した雇用が保障されているからに過ぎないと考えるからです。

 

そのため,今後日本の経済事情が暗転し,医療従事者たちの雇用の安定が脅かされた場合,その人たちは日々の生活の糧を確保するため,自らの切り札としての権利を行使する可能性は大いにあると考えます。この場合,残業代を求める医療従事者側と,その費用を健康保険料として負担する国民側との間では葛藤が生じることは免れません。

 

このような次第で,医療従事者の残業代問題は,健康保険制度全体をも揺るがす大問題になる可能性を秘めていると思います。しかも,その問題の火種は来年にも爆発するのではないかと考えたりするのです。

 

そんなときに,自分は何をできるのだろうか,そんなことを考えている年の瀬でした。

 

年末に物騒なことを書きましたが,次の一年も平和な時間になることを願うばかりです。

 

来年も当事務所をよろしくお願い申し上げます。

証拠の「強さ」と「固さ」

何と言っても裁判では出せる証拠で勝負が決まります。

もちろん相性のいい裁判官に巡り会うとか、弁護士の弁論能力が高いとかの要素も多少は裁判の行方を左右します。

しかし、証拠がなければ議論の土台すら作れません。

というのも、裁判官は

証拠で何が分かるか→分かった事実でどのような法律が適用できるか→法律を適用した結果どのような請求が認められるか

という思考で結論を出すからです。

 

日本の裁判では証拠は当事者が用意するのがルールとなっています。

裁判官が一方当事者だけに肩入れをすることは不公平になるからです。

そうなると当たり前ですが、「で、どういう証拠があればいいんですか?」という話になります。

 

それが分かれば誰も苦労しませんが、私自身が意識しているのは証拠の「強さ」と「固さ」です。

 

「強さ」とは、「その証拠で何を証明できるのか?」という視点です。

 

不貞慰謝料を例として、不貞相手が「私は●月●日にどこそこのホテル肉体関係をもちました。」と自白している場合を想定します。

この場合、不貞相手の自白が真実である限り、不貞関係があったということができます。

その意味で、この自白はそれだけで肉体関係の存在を証明できる「強い」証拠ということができます。

 

他方、夫が女性とラインで下ネタトークを繰り広げているという場合、そのラインのやり取りだけで直ちに肉体関係の存在を証明できるわけではありません。

この場合には、そのラインのやり取りが非常に頻繁であるとか、休日には必ずデートに行っているとか、キスをしている現場を目撃したなどの事情の兼ね合いがあって初めて肉体関係が認められます。

その意味でこのラインデータは不貞相手の自白に比べれば「弱い」証拠となります。

 

次に、証拠の「固さ」とは、その証拠の内容が時系列で役に立たなくなる可能性の大小の問題です。

 

先ほどの不貞慰謝料の例だと、確かに「私は●月●日にホテルどこそこで肉体関係をもちました。」という自白は、それが正しければ不貞は間違いなしということになります。

しかし、この自白は人間の言葉が情報源となっています。そして、人間の発言とは、いろいろな事情で内容がコロコロ変わるものです。

 

例えば、先の自白の場合、「いや、私はそんなことを言った記憶はない。」とか、「確かに不倫を認める発言をしたけれど、あれは奥さんから無理矢理言わされたんだ。」などの弁解が出てくることがあります。

この場合には、どのような経緯で自白をするに至ったかという経緯や、周囲の状況が問題となります。長時間にわたって問い詰めたり、自白しないと周囲に言いふらすといったような脅迫がある場合、その自白は記憶のとおりの発言なのかが怪しくなり、果たしてすぐに信用して良いだろうかということになります。

この意味で、この自白は「強い」けれども、固さでは「もろい」証拠となります。

 

他方、ラインデータの場合、そのデータは確かにその時間、そのような文言のやりとりがあったことはほぼ間違いないと言えます。

その意味で、このラインデータは自白に比べれば「弱い」けれども「固い」証拠だということができます。

 

このように、証拠は「強さ」と「固さ」の視点をもつと、その証拠がもつ価値の大きさが大体にしても分かってきます。

 

最近では、誰でもスマートフォンをもっているため、録音アプリで会話内容を保存することが簡単になっています。

そのため、今の時代「固い」証拠を残すことは、それほど難しいことではありません。

ですから、後は根気強く「強い」証拠が入手できるときを待てば良いということになります。

 

なお、録音データについては「そんな卑怯なものは証拠にするな」と反論されることがあります。

しかし、現在の世の中、自分からした会話の内容が録音されている可能性があることは、どこかの国会議員の「このハゲーーー」から始まるやり取りからも明らかです。

裁判所も、録音データに関して証拠から除外することはほとんどありません。

 

そういうわけで、このサイトをご覧になる方は、泣き寝入りをするくらいなら、じゃんじゃん証拠を残しておいてほしいと思います。

 

交通事故被害者は3度泣く(2)

引き続き交通事故についてです。

被害者にとって,治療費打ち切りの話は本当に突然に来ます。

本来,被害者からすれば相手がろくな運転をしないせいでケガを負わされたわけです。ですから,当人にとっては自分のケガが完治するまで加害者や加害者が加入している保険会社に治療費の面倒をみてもらいたいと考えます。当然のことだと思います。

しかし,事故の内容によっては,何ヶ月も病院に行っているけれどもこれ以上はどうもケガが良くなりそうにないと判断されてしまうことがあります。これがいわゆる「症状固定」といわれるものです。

一般的に,この「症状固定」までの期間は交通事故でのケガの大きさに比例して長くなります(例えば,同じ骨折といっても骨折のケースと複雑骨折のケースとでは回復までにかかる時間にも差が生じますし,後遺症が残る可能性にも違いがあります。また,その後遺症についても,どのくらい大きなものが残ってしまうかについては時間をかけて判断する必要があります。)。

そして,「症状固定」までの期間が長くなれば長くなるほど,被害者は受けたくもない治療を余儀なくされたり,仕事を休まされたりすることになります。

このことから,「症状固定」までの期間が長くなるにしたがって慰謝料や休業損害といった賠償額が大きくなるという関係があります(単純に両者が比例するわけではありません)。

繰り返しますが,ほとんどの被害者の方々は理不尽な交通事故のせいで長期間の治療を余儀なくされているわけですから,その期間や残った後遺症に見合った賠償を受けられる必要があります。

しかし,本当にごく一部ですが,治療期間が長くなるほど賠償額が大きくなると考え,不必要な治療を受け続けるケースがあることは否定できません。

そして保険会社は,このような「モラル・ハザード」のケースをことのほか警戒し,できる限り早く治療を切り上げさせ,「症状固定」の時期を早めようと圧力をかけます。

また,保険会社にとっては,「症状固定」の時期が早まれば,その分支払わなければならない賠償金・保険金が安く上がるということになり,保険会社のトクということにもなります。

ここで,できるだけきちんと治療を続けたい被害者側と,さっさと治療を打ち切って賠償金・保険金を節約したいと考える保険会社の利害が対立することになります。そのとばっちりとして,本当に真面目に治療を受けていた被害者がある日いきなり保険会社から治療費の打ち切りを宣告されるという苦杯を飲まされることになるということは,前回書いたとおりです。

次回は,被害者が流す3度目の涙として,「症状固定」までの期間の違いが慰謝料や休業損害にどのような影響を与えるか,また,いかに多くの被害者が理不尽な内容の示談案を押しつけられているかについて,専業主婦の方のケースを参考にしつつお話ししたいと思います。

労働事件の相談先は?(2)

前回に引き続き,労働事件に関して思うところを書かせていただきます。

当事務所では解雇や残業代などの問題を精力的に取り扱っています。その理由は,人々が安心して一日一日を過ごすためには,安定して仕事があり,安定して収入を得られる状態にあることが必要不可欠であるからと考えているからです。また,きちんと働いたことについてきちんとした給料で報いることは,単に労働者の生活を保障するだけにとどまらず,その人の人間性を評価し,自信をもたせ,結果として社会全体の生産性が高まるとも考えています。

しかし,鹿児島県は霧島市という地方の小さな法律事務所の弁護士として活動をしていると,これとは真逆の状態が平気でまかり通っています。その状態をまとめると,「毎日休日返上でサービス残業。ノルマを達成できなくて減給。パワハラセクハラは当たり前。不平を言えば即クビ。当然解雇予告手当は支払われない。社宅も追い出された。ハローワークに相談したら雇用保険は未加入だと言われた。預貯金はほとんどない。・・・明日からどうしよう。」というものです。

今の日本において,一般の方々にはそのような絵に描いたような「ブラック企業」は縁がない,例外的な存在だと思われているようです。これは政府レベルでも同様みたいで,政府や国会では多様な働き方を希望する人がいるという名目で派遣法を改正し,また,今後さらに労基法を改正して高度専門職制度というものを設けようとしています。この制度が成り立つためには「自分の仕事がみんなの役に立っている!時間に縛られないで一生懸命働いてたくさんの人にの役に立ちたい!それが自分の幸せなんだ!」と考えられるだけの自信と能力が必要になるはずだと思いますが,それほどの自信家が今の日本のサラリーマンの中にどれほどいるのだろう?と純粋に疑問に感じます。少なくとも私が見聞するのほとんどの事例は,ブラック企業で酷使された結果,自分に自信を失って後一歩で何かが壊れてしまいそうになっている人が登場します。

「ブラック企業」がもたらす悪影響は,今後ひたひたと国民全体の問題として迫ってくるでしょう。とうよりも,その問題はもう目の前に迫っています。

近時では子育て世代の貧困が徐々にクローズアップされていますが,この問題も子育て世代(特にシングル・マザー)が安定した身分で安定した給料を得られる仕事が非常に少ないという点が問題を大きくしています。正規雇用のアミから外れたこれらの人々には,「ブラック企業」であることを承知で仕事をし続けるという選択肢しか与えられません。その意味で,ブラック企業問題と子育て世代の貧困問題は密接にリンクしています。日本での終身雇用・年功序列賃金がもはや神話となった現在,これを抜本的に変更して,できるだけ多くの人々が安心して安定した収入を得て人間らしい生活ができる制度を作ることは極めて困難でしょう。

話が大分それましたが,私は政治家ではありません。そのため,私はこれらの問題についてどのようにすれば解決できるかという答えは持ち合わせていません。

私ができることは,当事務所に相談に来られた方々の悩みを聴き取るとともに,皆様に代わり,弁護士として堂々と法令上認められた権利を主張するだけです。しかし,それは非常に集中力を要する作業です。

労働法の保護から外された人々は生きるか死ぬかの問題を抱えます。そして徐々に自分に対する自信を失い,将来を考えることができなくなります。そのような中で,弁護士が辛抱強く,丁寧に相談者様の労働者として認められている権利の内容とその由来を説明します。最初は恐怖や不安で私の説明など理解することはできません。それでも,時間をかけて相談を重ねることでゆっくりと自分の意志を取り戻します。最後には,自分の労働者としての意見―自分は会社に残るにふさわしい,残業代をもらうだけの貢献をしている―をもつようになり,ようやく勤務先に対して法的請求を行えるようになります。

このような,本来あるべき法的請求をすることで,労働者はようやく自分が人間であることを思いだし,人生を再出発することに展望をもつことができるようになります。

以上のとおり,弁護士は社会のミクロの部分で解雇や残業代などの労働紛争を通じ,労働者の人格を回復させることができる唯一無二の資格であると考えています。一地方事務所の一弁護士でしかない私ができることは非常に限られています。しかし,個々の弁護士が労働者の一人一人に法的な救済を充てること,そして,その事例を集積させていくことが,本当に必要な労働法制の策定と,それによる社会内の生産力の増強をもたらすものであると信じています。

そのため,解雇・残業代その他労働に関する悩みをおもちのかたは,まずは当事務所まで御連絡いただければと思います。

最後に,ブラック企業の話ばかりしましたが,時折びっくりするほどホワイトな企業における事例を見聞することがあります。折を見てそのような事例が人々や社会にもたらす影響についても記載したいと思います。

労働事件の相談先は?

当地で事務所を始めて以来,特に労働者側の立場で労働関係の相談を受けることが増えました。

また,弁護士ドットコムの「みんなの法律相談」においても,労働関係の相談は多く寄せられています。

その中で,私が特徴的だなと思った点が2つあります。

1つは,大抵の相談者が,弁護士事務所に来られる前に労働基準監督署へ相談に行っているという点です。

2つ目は,相談者の期待に反して労基署があまり熱心に活動してくれないという点に不満をもたれる方が多いという点です。

このことは,以下の2つの理由から生じる現象と思われます。

まず第1に,労基署は行政の機関であって,私人間の個別の紛争を処理する役割はないということをほとんどの方が知らないという理由です。

労基署は,労働基準法その他の法令違反があった場合には警察と同様に強制的な捜査ができる権限をもっています。しかし,そのような権限は飽くまで犯罪の検挙し,公益を守るために行われるものです。基本的に労基署は相談者個人のために企業と闘って未払賃料を請求したり解雇無効を主張したりできる立場にはありません。警察の「民事不介入」の考え方が労基署にも当てはまるわけです。

これは,労基署に求められる役割からすれば当然であり,やむを得ないところです。ただ,相談者にとっては労基署は労働者の味方だと思って相談に行かれるわけで,そこで知る労基署の能力の限界には大きく落胆をさせられます。

ここで,第2の問題として,それでは相談者はどこに相談に行けばいいのか?という点です。この問題は第1のそれよりもはるかに大きな問題です。

本来であれば,ここで「弁護士事務所です!」と自信満々に言えればいいわけですが,現実はそうはいきません。

なぜなら,相談者には弁護士に相談をするという発想が抱けないからです。

相談者の皆様は,大抵,まずは会社と直接交渉→労基署に相談→弁護士に相談,というプロセスを経られて法律事務所にたどり着かれます。そして,弁護士に相談に来られるまで,相談者はひとりで会社の勝手な言い分と闘わなければなりません。悩んだ末にたどり着いた労基署でも問題が解決できないとなって,それでも納得できないと気力を奮い立たせて,ようやく「弁護士に相談しよう!」という発想となるわけです。

逆に言えば,この過程で気力が尽きて諦めてしまうという方々もいらっしゃいます。そして,その数は弁護士に相談に来られる方よりもはるかに多いはずです。

こうして,「ブラック企業」は今日も元気に活動し,その裏で多くの労働者が涙を飲まされるという状況が許されてしまっています。

では,なぜ「弁護士に相談する」という発想を抱けないのか?

やはり弁護士側から国民に向けてのアピールが全般的に弱いからだと思われます。

ではどうすれば国民全体へのアピールができるのか?

残念ながら今の私の頭では画期的なアイディアは思い浮かびません。

弁護士による広告規制が緩和されてから大分経ちますが,テレビやラジオで労働事件をCMするというのは聞いたことがありません。一時は未払賃金事件が過払い金事件に取って代わるという話がありましたが,現在のところはそうはなっていません。

広告で宣伝されるのは,今でも過払い案件か,せいぜい交通事故案件くらいでしょう。労働事件はどうしても定型的に処理できない部分があるため,コストに見合った利益が出せないのだと思います。

弁護士会などは時折市民向けに無料法律相談会などを開きますが,国民への訴求力は大きくありません。

ワタミの過労死事件のように,大きな事件であればインパクトも大きいですが,あれは極端な事例だからニュースになったのであって,どれほどの方が現実感をもってあの事件を受け取ったかは分からないところがあります。

結局,現時点では個別の弁護士の正義感に期待してアピールするということくらいしか方法はないということでしょうか。

現在は,弁護士が大きく増えている時代ですので,あるいはこうしたアピールの数も多くなるかも知れません。

弁護士全体としては,パイが限られている事件の取り合いで疲弊していくのは苦しいところです。しかし,それで新しく事件が発掘できれば最終的には国民全体の利益にもかなうのかもしれません。

地方の一弁護士でしかない私には,いずれそうなることを期待しながら,依頼を受けた一件一件を適切に処理していくことで,依頼者と市民の信頼を獲得していくことしかできません。

ただ,そのことを通じて少しでも国民の一人一人が「弁護士に相談する」という発想をもっていただければありがたいと思っています。

面会交流における理想と苦悩

このたび,面会交流に関する裁判について,平成27年7月25日付産経ニュースに注目すべき記事が載っていました。

同記事によると,「別居中の妻に長女との面会を妨げられたとして愛知県内の男性が面会の実現を求めた裁判で、妻が正当な理由なく面会させなかった場合に科される間接強制の制 裁金を4倍に増やす決定が名古屋高裁であったことが25日、分かった。親子の面会で制裁金が大幅に増額されるのは異例。面会交流調停の申し立てが増加する 中、面会を妨げた親の親権変更や弁護士への損害賠償命令などの司法判断が相次いでおり、専門家は「子供の利益を最優先にする民法改正の影響だ」と指摘して いる。」(以上,上記産経ニュースの記事を引用。)とのことです。

現時点では決定文の全文を確認することはできていませんが,この裁判が確定したら,今後の面会交流実務には大きな影響があると思われます。

面会交流については,平成24年改正の民法766条1項で「父母が協議上の離婚をするときは,・・・父又は母と子との面会及びその他の交流・・・について必要な事項」を「子の利益を最も優先して考慮して」定めるものとしています。この規定から,非監護親(子どもの養育及び監護を担当しない親)と子どもの面会交流は,子どもの成長にとって有益であるという前提が存在しており,実務上も面会交流は可能な限り実現するよう努力する取扱いがされています。

では,面会交流が子どもの成長にとって有益であるといえるのはどのような理由からでしょうか?

この点については,離婚という大人の一方的な都合で親子関係を引き裂かれた子どもにとって,非監護親との面会交流は家族としてのつながりを再確認し,自分という存在を肯定することができるという,子どもの人格形成にとっての有効性が理由の一つとして挙げられます。

また,その他の理由としては,非監護親と子どもが面会することで,子どもから大人へ「発達」する過程において生じる数々の葛藤・課題を乗り越えるための良き助言,見本を得ることができ,これにより葛藤・課題を乗り越えて自分という存在に自信をもつことができるようになることが挙げられます。

以上のように,非監護親と子どもの面会交流には,子どもの人格の発達にとって重要な意味があることから,できる限りこれを実現する必要があります。

しかし,他方,面会交流は飽くまで子どもの人格の発達という「目的」に対する「手段」に過ぎません。そして,面会交流が子どもの人格の発達にとって本当に有用であるか,疑問視される場面がないわけではありません。

これがDVであるとか児童虐待の事例であれば,客観的に事態を把握でき,対処の手段もある点で,子どもの人格を守るために面会交流を否定するという結論を導きやすくなります。

これに対し,近時「モラハラ」といわれている事案については,非常に判断が難しくなります。

ここで,「モラハラ」には様々なニュアンスで用いられる言葉であるため,画一的な定義は難しいです。

私なりの理解としては,「行為者が相手方に対する絶対的優位性を誇示,あるいはこれを獲得するために行われる,相手方の人格を否定する有形無形の行為一切(DVや虐待を除く)」と考えたいと思います。

このような人は次のような特徴があります。

まず,言っていることとやっていることが正反対ということが非常に多いです。配偶者には「もっと自由にふるまいなさい。」と言いながら,配偶者の一挙手一投足を見張り,気にくわないことを見つければそれがどんなに些細なことでも文句を言います。それも,ことさら相手方の人格を否定するようなキツい言葉で責め立てます(「こんなことも分からないのか。バカな奴だな。」など。)。

また,自分の意見は常に全て正しく,それ以外は全て間違っていると考えます。それにもかかわらず,実際に自分が選択を間違えて不都合なことが起きた場合には自分では責任をとらず,全て配偶者に押しつけます(「自分の意見にお前も賛成した。きちんと確認しなかったお前が悪い。」)。

更に,配偶者にコンプレックスを植え付け,それを大きくさせる言葉で相手を責め立てたりします(「だらしがない。」,「頭が悪い。」,「行動が遅い」,「お前は人の気持ちが分からない奴だ。」など。)。

これらはモラハラの特徴のごく一部ですが,いずれの場合でも共通するのは,自分が絶対的な君主で,それ以外の関係者は全て従者,ひどいときには精神的奴隷ともいうべき明確な上下関係,主従関係を強く望んでいるという点,そして,自分は相手方の言動を全人格レベルでコントロールしなければ気が済まないという点です。

このような特徴は,親子関係においても例外ではありません。むしろ,親子関係というのは親と子だけで完結する閉鎖的な関係で,大人対子どもと力関係も明白であることから,このような傾向は一層強くなります。そのような関係の下では,親は皇帝であり,子どもは奴隷でしかありません。親が子どものことを人格をもった一個人とみることは期待できず,子どもにとっては皇帝の命令に盲従することが求められます。

このような不健康な親子関係においては,無理して子どもを親と面会させることは,子どもに奴隷としてのトラウマの日々を思い出させるとともに,自分の気持ちが尊重されないということでの無力感を覚えさせ,かえって発達において重大な支障になるものと考えます。

少なくとも,子どもがある程度の年月を経て,しかるべき発達課題をクリアした段階で面会交流を試みるという方法も選択肢があるべきだと考えます。

ダン・ニューハースは「不幸にする親 人生を奪われる子ども」(講談社+α文庫,訳:玉置悟)の「親との関係の持ち方を変えるには」という章の中で,上記のような不健康な親子関係から子ども(であった人)の人格を取り戻す方法として,親との間で健全な境界線を引くことの重要性を主張します。そして,この境界線の引き方として,「たとえば,親と会うのがあまりに苦痛な場合は延期してもいいですし,どうしても会わなくてはならない場合には,会ってもあまり口をきかないでいることもできます。相手がどう思おうが,何を言おうが,心を遠ざけてしまうこともできます。しばらく接触しない“試験期間”を設けることもできます。いわば親から休暇をとるようなものです。そうしたからといって,そこで永久に関係を断つわけではありません・・・コントロールばかりする親のいる家で育った人にとって,精神的な生存を守るために行動できるようになることは,人生の大きな転機となります。それはまた,「一人の人間として生きている自信」をつけることになるでしょう。」(以上,同著194ページ以降を引用。)と述べています。このアドバイスは大人となった子どもに対するものとしてされたものですが,この「試験期間」や「休暇」はつい最近までコントールばかりする親の下で育ってきた子どもにこそ,重要な意味をもっていると思います。

ここで,面会交流の実務について私の感想を述べますと,実務では面会交流を積極的に認めていく方針であり,私自身,その方針自体は歓迎すべきものであると考えています。

しかし,実際の面会交流の審判に当たっては,現在は面会交流を認める時勢の流れがあるから,とりあえず何とか面会交流を実現させようというような傾向がないとはいえません。面会交流自体が「目的」化してしまっていると感じることがあります。

この点については,DVに関する指摘ではあるものの,「性と法律―変わったこと,変えたいこと」(角田由紀子著,岩波新書)は90ページ以降において,「調停委員や家裁の裁判官は,子どもの被害について教育を受けているのだろうか。子どもには親に会う「義務」があるかのごとき発想の人に出会う現場にいる人間としては,心許ないところがある。子どもにとっては,一生の方向に関係する問題であることが,もっと認識されるべきである。それがなければ,場合によっては,家裁が暴力の連鎖の維持に手を貸すことになるのではないかと思う。家裁は,ドメスティック・バイオレンスにさらされた子どもが受けた被害をもっと理解する必要がある。それには,法律家の知見だけではあまりにも限界がある。その限界をわきまえて,たとえば小児精神科医など子どもの現場に詳しい専門家の意見を聞き,関係する分野の人たちとの連携と交流を図るべきであろう。同じことは,家族に関する事件を扱う弁護士にも当てはまることは,言うまでもない。」(以上,同著を引用。)という御指摘があり大変参考になります(もちろん,現場の関係者の方々にはそれぞれお忙しい中様々なことを考慮していただき,その活動には敬服しております。)。

離婚後における非監護親と子ども関係は,それが円満であれば面会交流を実施することに全く異存はなく,私自身,そのような事案であれば,面会交流を実現するべく監護親にその意義を丁寧に説明しています。

しかし,頑なに子どもが面会交流に嫌悪感を示すような場合においては,私自身,面会交流を実現することが子どもの人格形成や発達に悪影響を与えないかと自問自答します。それでも実務的には面会交流を認める傾向があることを監護親に説明しなければならないときには大変な苦悩を抱かざるを得ません。

先の角田由紀子氏の著書にもあるように,子どもには親に会う「義務」があるわけではありません。このことからすれば,飽くまで面会交流は子の人格形成,発達促進のために行われる一手段であること,そのため,面会交流の実施に当たっては子どもの意見を第一に尊重すること,逆に非監護親の要望などは補充的な考慮要素にとどめられるべきではないかと思います。

その意味で,今回の決定がどのような経緯でなされたものであるのか,私自身もよく吟味し,これから先の事案を扱う際の参考としたいと思います。

なお,今回の記事を作成するに当たって,上記の書籍以外にもスーザン・フォワード著の「毒になる親 一生苦しむ子供」,クレイグ・ナッケン著の「やめられない心 毒になる「依存」」(いずれも訳:玉置悟,講談社+α文庫),外山紀子・外山美樹著の「やさしい発達と科学」(有斐閣アルマ),片田珠美著の「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)を参考にしました。いずれも親子関係や子どもの発達の問題について易しく記載されているので,皆様も一度ご覧になることをおすすめいたします。

依存症と弁護士業務

弁護士業務は依存の問題と関連があるものが少なくありません。例えば刑事事件ではギャンブル依存が原因の窃盗や薬物犯罪における被疑者・被告人の弁護人として活動しますし,民事事件でもやはりギャンブルが原因となった借金の債務整理を行うことで各種の依存の問題に接することになります。

個人的な感覚としては,鹿児島ではギャンブルとアルコールで依存に苦しむ方が多い印象があります。もしかしたらパチンコが盛んだったりお酒好きな県民性が関係があったりするのかもしれません。

いずれにしても,依存症の問題を抱えている場合には事件処理にも一定の配慮が必要です。なぜなら,弁護士による介入が逆に依存の問題の根を深くする可能性があるからです。

例えば,ギャンブルが原因で自己破産するに至った場合について考えてみます。

本来,ギャンブルで借金を繰り返したようなケースの場合には,自己破産を申し立てても免責が不許可になり,結局借金を返済し続けなければならないとされています。しかし,実際の運用上は,破産者の立ち直りに期待して高い割合で免責が認められ,借金返済の負担から解放されています。

問題は,ギャンブル依存の問題をそのままにして借金返済の負担だけなくすと,かえってギャンブル依存の問題の根を深くしてしまうということです。すなわち,ギャンブルから足を洗わない状態で突然,借金がなくなるといった状況は,本人のギャンブルに対する危機感を薄くさせ,再びギャンブルにはまらせてしまう可能性を高めてしまいます。

このように,本人のことを助けるためにしたことが,かえって本人の抱える依存の問題を悪化させる事態を招くことになります。

そのようなことにならないために,依存の問題を抱えている方に対しては速やかに精神保健福祉につなげることが必要となります。

具体的には,依存症の専門の病院での治療を勧めたり,アルコール依存症の場合にはAA(アルコホリック・アノニマス)や断酒会,ギャンブル依存症の場合にはGA(ギャンブラーズ・アノニマス)などの自助グループを紹介したりすることになります。また,依存症について書かれた書籍をお貸しすることもあります。

一般的に,依存症の方は自身が病気であることを認めたがらず,治療は困難であるといわれています。しかし,弁護士が必要となった時点では依存の問題がかなり深刻化しており,本人もそのことを自覚しています。そのため,これらの制度や依存の仕組みを依頼者に説明すると,依頼者の方も真剣に話を聞いてくださります。実際に自助グループに参加してアルコールやギャンブルをやめたという連絡を受けることも少なくありません。そのようなときは弁護士をやって良かったと思います。

このように,弁護士は依存症の問題解決にとって重要な役割を担うことができる仕事です。現時点では,この点について弁護士側が意識することは少ないようですが,より多くの弁護士がこの問題を自覚して活動すれば救われる方々も増えるのではないかと考えています。

法律家の男女比率

先日,弁護士の一斉登録のことをブログに投稿しましたが,裁判官と検事についても今月22日付で辞令が下されたそうです。

そのニュースの中で私は,新任検事74人のうち29人,つまり約4割が女性であるという点に特に大きな興味をもちました。

そもそも,司法試験における女性合格者の比率はおおよそ25パーセント程度だといわれています。それと比べると,新任検事の女性比率が4割というのは,比率としてかなり高いという印象です。やはり,安倍首相が力を入れている女性の社会進出を反映しての結果ではないかと思います。ただ,そのような政策的な考えを置いておいても,女性の法律家が増えることは好ましいことであると思います。

まず,今回多数の女性が採用された検事に関して考えると,検事が取り扱う刑事事件の中には性犯罪というナイーブな類のものがあります。

一般に刑事事件においては被害者は,犯罪捜査の段階では事情の聴き取りもされますし,場合によっては裁判で証言もしなければいけないなど,心身に重い負担を強いられます。それが性犯罪の被害者ともなれば,男性には話したくないことも多いはずですし,二次被害の危険も少なくありません。

そのため,女性の検事を増やし,そこに性犯罪の事件を配点することは,被害者への安心や法律家への信頼確保の視点からは非常に好ましいことだと思います。

 

他方,弁護士についてみると,2014年版の弁護士白書によれば,弁護士の女性比率は約18パーセント(鹿児島は約12.5パーセント)と,かなり男性の数が多い状態となっています。実際,私自身も日々の業務でもその比率を実感する日々を送っております。

たとえば,弁護士がよく受ける相談の一つに離婚相談があります。相談を希望する方は一般市民の皆様ですから,基本的に男女比はほぼ同じであり大きな偏りはないはずです。そうすると,相談相手の弁護士は男性の方が多いわけですから,女性が男性の弁護士に相談をするということが多く発生します。

しかし,離婚という問題も相談内容にナイーブなトピック(たとえば異性関係の遍歴など)を多く含んでいるため,相談者側の視点に立てばできれば女性の弁護士に相談をしたいという希望はあると思います。

その意味で,一般の市民の皆様にとって利用しやすい司法アクセスを目指す見地から,女性の法律家の増加は社会的にも求められている事柄です。

もっとも,先ほども述べたとおり,実際問題として依然として法曹は男性の割合が圧倒的に高いままですし,そもそも法曹の資格の前提となる司法試験において女性の合格者の割合が25パーセントに止まっています(その理由はそれなりの理由があると思いますが,別の機会に考えを述べられればと思います。)。このような状況下では直ちに女性法律家の増加を期待することは困難と思われます。

そこで,私たち男性側の法律家が,以上の現状を踏まえた上で,極力女性側の気持ちに配慮した対応を心がけなければなりません。

たとえば,離婚相談において夫の暴言や育児への非協力について相談される方がいらっしゃったとします。そのような場合,男性弁護士は時として同じ男性である夫側の視点に立って「ご主人が怒るの事情がある。」,「あなたを怒るのは愛情があるからだ。」とか,「ご主人も仕事で忙しいのだから育児まで無理に協力させてはいけない。」などと言ってしまいがちです。

しかし,このような回答は相談者側からすれば勇気を出して相談したにもかかわらず,相手方の味方をされたと捉えてしまい,相談者をひどく失望させてしまいます。

男性側弁護士に必要な態度とは,まず相談者に全てを話してもらうようお願いをする。そして,実際に話したいことを全て話し終えるまで弁護士側からは何もアドバイスを出さないという姿勢,つまり相談者の全てを受容する姿勢を示すことだと思います。

このような対応を心がけて相談者の方々に自分の話を聞いてくれるという実感をもってもらうことで,相談者の方々は性別を問わずに私たち弁護士を信頼してくださると考えています。

 

私が活動する霧島市はまだまだ弁護士の人数も少なく,市民の側から弁護士を選べるという状況にはありません。そのため,以上の心がけはその他の地方に比較しても強く求められているはずです。

私自身,霧島市の弁護士の一人として,市民の皆様一人一人からの信頼を得られるよう,常に相談者側の視線はどこにあるのかを自問自答して以上の対応を心がけて参りたいと思います。

弁護士の一斉登録を迎えて

本日になって知ったことですが,今月の16日に司法修習生の卒業試験に当たる2回試験の結果が発表され,18日付けで一斉に弁護士として新規登録がされたそうです。

「司法修習生」や「2回試験」について耳慣れない方が多いと思いますので,ごく簡単に説明いたします。

「司法修習生」とは,司法試験合格後に法曹三者といわれる裁判官,検察官,弁護士となるために必要な実務上の知識を得るための見習い学生みたいなものです。この司法修習生は,最高裁判所から任命され,身分は国家公務員に準じ,在任中は1日24時間365日,修習に専念して勉学に励むことが求められます。そのため,司法修習生はアルバイトなどで収入を得ることはほとんど認められていません。その代わりということで,私が司法修習生だったときまでは国から大卒公務員の初任給と同程度の給与をいただいていました(現在は貸与制となっています。)。

このような制度を設けている理由は,司法試験がペーパーテストで法律の知識や理解力を試すものであることから,この試験に合格しただけではプロの法律家として実際に法律を扱えるだけの能力が備わっていないため,ある程度時間をかけて(現在は1年間です。)集中的に実務の知恵を叩き込む必要があるという考えがあるためです。

次に,「2回試験」とは,司法修習生にとっての卒業試験みたいなものです。この試験を通過することで初めて弁護士などの法曹三者となることが許されます。司法試験に続いて2回目に受ける試験ということから,この名称が使われています。

合格率は大体95パーセント以上です。

これだけ聞くとずいぶん楽な試験みたいに思われます。しかし,この試験の受験生は司法試験をくぐり抜けた猛者たちだけの上,大概の修習生はこの試験を受ける時点で就職活動を終えて内定をもらっているため,絶対に落ちることができないという意味で合格率以上の割にプレッシャーの大きい試験となっています。

今年の受験生は2015名で,合格者は1973名だったそうです。今回合格できなかった方々はさぞかし無念であったと思いますが,来年での挽回を心より願っております。

他方,合格者は18日付で就職先に就職したことになります。一部は裁判官や検察官として任用されているはずですが,残りの1000名超の方々は弁護士に登録しているはずであり,私たちが活動している鹿児島でも10名を超える新弁護士が誕生したと思われます。

かつて,司法試験の合格者が500名だけしかいなかったことからすれば,鹿児島にも弁護士が増えたことは時代の変化を感じており,歓迎すべきことだと考えています。

しかし,鹿児島で弁護士登録をされた方々も,そのほとんどは県庁所在地である鹿児島市の事務所で活動をするにとどまっており,未だそれ以外の地域で活動を始めようという状態にはなっておりません。現に,私がいる霧島市においても,住民数は10万人を越えるにもかかわらず,そこで活動している弁護士数は私を含めてもヒト桁に止まっています。

私自身,弁護士増員時代の司法試験に合格し,弁護士となって3年目にしてようやく鹿児島市外で活動し始めた立場であるため大きなことは言えませんが,弁護士の数だけ増えてもなかなか県庁所在地の外に出て行くという目立った傾向は今のところ生まれていないようです。

最近では現在の弁護士数の急増が議論となっているようですが,私自身の感想としては,現在の状況で弁護士サイドがいくら弁護士数の増加の弊害を訴えたとしても,実際に地域での弁護士活動が活発となっていないのであれば,国民サイドからの支持は得られないと考えています。

特に,私が霧島市で活動を始めて以来,弁護士に相談できたこと自体を喜ばれる方々を見ていると,弁護士サイドから国民側に働きかけることで法曹需要を発掘する余地は大きいのではないかと思います。そのためには,まずもって私を含めた弁護士一人一人が,依頼者の皆様が抱えている悩みに真摯に耳を傾けて追体験をすることで,悩みの本質に迫ろうとすることが必要であると考えています。

現在の弁護士増の傾向からすれば,鹿児島や霧島市内にも今後弁護士が増えていくことで,より多くの国民の皆様の声が聞こえるようになると思います。そして,そのような弁護士増の傾向が世論的に許容される限り,弁護士側も国民側の目線に立って,弁護士に対して何を求めているのか,弁護士としてそれにどのように応えなければならないのかを問答しなければならないと考えています。

当地で活動を始めた私自身,霧島市において活動する一弁護士として極めて微力ながら,国民の皆様のために何ができるのか,あるいは,何をすべきなのかを日々自問自答して活動して参りたいと思います。

弁護士に相談するということ

当ホームページでも何回か書いてあるとおり,当事務所が置かれている鹿児島県霧島市の国分は私自身の出身地であり,私は学生時代を除いた約20年間は旧国分市圏内で生活しています。そして,当所において私が当事務所を開設してから約2か月が経ちました。

そこで活動する中で私が抱いた印象は,いかに皆様が弁護士に相談することについて困難を感じているのかということです。

私も弁護士の端くれとして,当事務所を開設してからこれまでの間に数名の方から法律相談を受けています。その中で異口同音に言われる悩みとは,自分の抱えている悩みを弁護士に相談していいのか分からないというものです。

その理由をたずねますと,法律とは関係ない相談をして弁護士に時間をとらせることが申し訳ないという思いがあったり,あるいは,こんな簡単な法律をどうして知らないんだと言われるのが怖かったという気持ちがあったりするからとのことでした。

しかし,相談を受ける側の私からすると,「だからこそ私たちに相談をしてほしい。」と考えています。

弁護士は医師と比較されることが多い仕事ですが,例えば,自分の体調が悪いとして病院に行こうというときに,自分の体のどの部分にどういう症状があって,どういう病名があるのかを調べてから病院に行くという方はいないはずです。体調が悪ければとりあえず病院に行って医師から診断をうけるはずです。

それが,法律事務所に行く場合には,自分がもっている悩みが法律問題なのか,そうでないのかということで悩んでしまう。その結果,相談に来るまでに非常に時間がかかってしまうということが少なくありません。なぜそのようなことになってしまうのかと考えると,その原因の一つにはやはり自分たちの日常の行動範囲の中で法律事務所や弁護士というものが目に入らないからだと思っています。

病院については,普段の生活の中で近くにどのような診療科があって,どのような先生がいるのかというのが分かります。しかし,霧島市での法律事務所は総数でも10を下回る数しかありません。このような法律事務所の絶対数の少なさが,弁護士の存在を縁遠くして敷居を高くしてしまう原因の一つだと思います。

もう一つの原因は,弁護士自身,相談者の悩みを理解しようという意欲に不足している,あるいは無意識的に依頼者に意見を言わせまいという空気が出ているからではないかと考えています。

なぜ,弁護士がそのような姿勢になってしまうのか,現在私自身も色々考えていますが,この場で書くにはスペースが足りないため,また別の機会を設けて考察したいと思います。

とにもかくにも,普段の生活の中で弁護士に相談したいことや聞いてほしいことがあれば,主治医の先生の所へ行く感覚でまずは私に相談してほしいと思っています。

もちろん,私は相談を受けた全てに満足をいただける回答ができるほどの万能な人物ではありませんが,皆様から悩みを聞かせていただくことで少しでもその後の人生に役に経つことができれば,私自身の弁護士としての本懐であると考えています。