大晦日を迎えて

ここしばらくさっぱり更新ができなくて申し訳ありませんでした。

おかげさまで,当事務所は開所1年を何とかクリアできそうでホッとしています。

 

こうして無事に新年を間近にして思い返すと,今年は本当にあっという間にすぎた1年でした。

私個人としては大変忙しいでしたが,依頼者の皆様から直接お話を伺うことができたことは実に貴重な1年でした。

それと同時に,弁護士とは目の前の現実に悩む人々の声を聞き,顔を見て,少しだけでも希望をかなえることができるという仕事なのだと実感した1年でした。

これもひとえに私を信頼してくださった皆様のおかげであったと感謝しております。

来年も弁護士として何ができるかを自問自答しながら皆様の基本的人権を保障するために邁進していきたいと思います。

 

特に,今月は生活保護基準引き下げの違憲訴訟に原告訴訟代理人の一員として参加させていただくことができ,今後の弁護士人生にとっての貴重な一里塚になりました。私の故郷である鹿児島で,このような国民一人一人の生活に直結する訴訟に関与することができるのは,私の人生にとって無上の喜びです。

この訴訟については,頭の裁判所を説得する意味でも,国民の皆様に訴訟の意義を理解していただく意味でも,非常に長く険しい道のりとなりますが,貧困というそこにある現実で苦しむ方々の生々しい現実を理解していただくべく努力して参りたいと思います。

 

また,本年はいわゆる「ブラック企業」とは何かを垣間見ることができた年でした。

私とほぼ同じ年代の方々が「ブラック企業」に就職し,そこで良いように使い倒され,最後には人生で一番大切な時間をつぶされた,そのような不条理に憤った1年であり,それと同時に,そのような方々がなかなか弁護士に相談に来ることができないという現実に非常にもどかしさを感じた1年でした。

 

来年は,私自身もより法律専門家としての自覚をもって知識とスキルを習得していくとともに,一国民として皆様の抱える悩みに真摯に耳を傾けて参りたいと考えております。それと同時に,悩みを持たれる方々により身近に弁護士という存在を知っていただくために何ができるのかということを問い続けて参りたいと思います。

 

このように色々とご託を並べて参りましたが,来年も自分にできることを精一杯やり遂げて参りたいと思いますので,皆々様におかれても何卒御協力のほどよろしくお願い申し上げます。

司法試験合格発表を受けて

本日,平成27年の司法試験の合格発表がありました。

合格者数1850人,私の母校である北海道大学法科大学院出身の合格者は42名とのことでした。

合格者の皆様,おめでとうございます。これまでの勉強の成果が実ったことをお祝い申し上げます。

残念ながら本年の合格がかなわなかった皆様におかれましては,大変悔しいお気持ちだと心中お察し申し上げます。今は辛いと思いますが,時間をかけてその気持ちを整理していただければと願っております。

さて,今回,司法試験受験生たちを愚弄する信じがたいニュースが飛び込んできました。

「司法試験問題漏えいの疑い 論文の書き方を指導か

明治大学法科大学院の教授がことしの司法試験で試験問題を漏えいしたとして告発された事件で、この教授は、試験前にみずからが作成に関わった論文試験の問題を教え子だった受験生に解かせたうえで、論文の書き方まで指導していたことが分かりました。東京地検特捜部はすでに関係先を捜索するなど問題漏えいの実 態解明を進めています。」(本日のNHKウェブニュースの抜粋)とのことです。

数年前にも,慶應大学法科大学院において試験問題の漏えいが問題となったことがありましたが,今回のニュースは論文の漏えいだけでなく,それに加えて試験問題を解かせた上で答案の書き方まで指導していたというのですから,全く悪質きわまるものであり,言葉もありません。それと同時に,つくづく法科大学院制度のゆがみを思わせる事件だと感じました。

私が在学中も,他大学でいじめ問題が発覚し,それがニュースになったことがありました。

とにかく法科大学院ではこれが大の大人が,それも国民の人権に奉仕せんとする法曹の卵が人間がやることなのかという事件が平気で起こります。ニュースにならなくても,仲間はずれや告げ口などは複数の法科大学院においてあるようであり,法科大学院内には陰気な人間関係を作り出す土壌があるとしか思えません。

そして,当の学生の立場になれば,このようなことをしたくなる気持ちになってしまうのも不思議ではありません。

そもそも,法科大学院生は起きている時間のほとんどを勉強時間に充て,生活費や学費・教材費などに膨大な金銭的な負担を背負いながら,その将来は何も保障されていません。

弁護士の就職難や収入減少が(ごく一部で)問題とされていますが,司法試験に合格しなければ肝心の肩書きすら手に入らないのです。

しかも,法科大学院生は5回という試験回数の制限があるため,これを使い切れば法曹となる可能性はほぼなくなります。

その場合に残された人生の選択肢は,それまでに費やしたあらゆる負担と比べれば非常に少ないものです。

さらに悪いことに,今後司法試験の合格者数は漸減されていくというわけですから,受験生としては将来が不安で仕方なくなるのは当然で,正常でいられる方が異常だとすら思います。

このような法科大学院制度のゆがみが,今回のような幼稚でセコい事件の背景になったのではないかと感じます。

しかし,今回のような事件は当然,真面目に法曹を目指す人たち全員を,さらには国民全体を裏切る行為であり決して許されてはならないものです。

法科大学院におかれては,法曹を養成する場であることについて認識を新たにしていただくとともに,受験生側も楽な合格の途はないものだと改めて覚悟をしていただきたいと思います。

仮に司法試験で楽をしたとしても,その先には司法修習と2回試験が,その後は実務が待っています。試験に合格することはゴールではありません。国民の基本的人権を実現しようという考えれば,私たち法曹自身も日々勉強不足を痛感する毎日です。

世に楽な職業というものはないと思いますが,こと法曹を目指し国民の人権に奉仕しようと決意したのであれば,その目標を見失わないでほしいと思います。

受験生の立場からすれば,随分と好き勝手なことを書きましたが,法科大学院の制度上の問題は問題として,受験生の皆様におかれては,何とか自分を保って合格していただきたいという気持ちでこの記事を書かせていただきました。

1人でも多くの合格をお祈りしています。

面会交流における理想と苦悩

このたび,面会交流に関する裁判について,平成27年7月25日付産経ニュースに注目すべき記事が載っていました。

同記事によると,「別居中の妻に長女との面会を妨げられたとして愛知県内の男性が面会の実現を求めた裁判で、妻が正当な理由なく面会させなかった場合に科される間接強制の制 裁金を4倍に増やす決定が名古屋高裁であったことが25日、分かった。親子の面会で制裁金が大幅に増額されるのは異例。面会交流調停の申し立てが増加する 中、面会を妨げた親の親権変更や弁護士への損害賠償命令などの司法判断が相次いでおり、専門家は「子供の利益を最優先にする民法改正の影響だ」と指摘して いる。」(以上,上記産経ニュースの記事を引用。)とのことです。

現時点では決定文の全文を確認することはできていませんが,この裁判が確定したら,今後の面会交流実務には大きな影響があると思われます。

面会交流については,平成24年改正の民法766条1項で「父母が協議上の離婚をするときは,・・・父又は母と子との面会及びその他の交流・・・について必要な事項」を「子の利益を最も優先して考慮して」定めるものとしています。この規定から,非監護親(子どもの養育及び監護を担当しない親)と子どもの面会交流は,子どもの成長にとって有益であるという前提が存在しており,実務上も面会交流は可能な限り実現するよう努力する取扱いがされています。

では,面会交流が子どもの成長にとって有益であるといえるのはどのような理由からでしょうか?

この点については,離婚という大人の一方的な都合で親子関係を引き裂かれた子どもにとって,非監護親との面会交流は家族としてのつながりを再確認し,自分という存在を肯定することができるという,子どもの人格形成にとっての有効性が理由の一つとして挙げられます。

また,その他の理由としては,非監護親と子どもが面会することで,子どもから大人へ「発達」する過程において生じる数々の葛藤・課題を乗り越えるための良き助言,見本を得ることができ,これにより葛藤・課題を乗り越えて自分という存在に自信をもつことができるようになることが挙げられます。

以上のように,非監護親と子どもの面会交流には,子どもの人格の発達にとって重要な意味があることから,できる限りこれを実現する必要があります。

しかし,他方,面会交流は飽くまで子どもの人格の発達という「目的」に対する「手段」に過ぎません。そして,面会交流が子どもの人格の発達にとって本当に有用であるか,疑問視される場面がないわけではありません。

これがDVであるとか児童虐待の事例であれば,客観的に事態を把握でき,対処の手段もある点で,子どもの人格を守るために面会交流を否定するという結論を導きやすくなります。

これに対し,近時「モラハラ」といわれている事案については,非常に判断が難しくなります。

ここで,「モラハラ」には様々なニュアンスで用いられる言葉であるため,画一的な定義は難しいです。

私なりの理解としては,「行為者が相手方に対する絶対的優位性を誇示,あるいはこれを獲得するために行われる,相手方の人格を否定する有形無形の行為一切(DVや虐待を除く)」と考えたいと思います。

このような人は次のような特徴があります。

まず,言っていることとやっていることが正反対ということが非常に多いです。配偶者には「もっと自由にふるまいなさい。」と言いながら,配偶者の一挙手一投足を見張り,気にくわないことを見つければそれがどんなに些細なことでも文句を言います。それも,ことさら相手方の人格を否定するようなキツい言葉で責め立てます(「こんなことも分からないのか。バカな奴だな。」など。)。

また,自分の意見は常に全て正しく,それ以外は全て間違っていると考えます。それにもかかわらず,実際に自分が選択を間違えて不都合なことが起きた場合には自分では責任をとらず,全て配偶者に押しつけます(「自分の意見にお前も賛成した。きちんと確認しなかったお前が悪い。」)。

更に,配偶者にコンプレックスを植え付け,それを大きくさせる言葉で相手を責め立てたりします(「だらしがない。」,「頭が悪い。」,「行動が遅い」,「お前は人の気持ちが分からない奴だ。」など。)。

これらはモラハラの特徴のごく一部ですが,いずれの場合でも共通するのは,自分が絶対的な君主で,それ以外の関係者は全て従者,ひどいときには精神的奴隷ともいうべき明確な上下関係,主従関係を強く望んでいるという点,そして,自分は相手方の言動を全人格レベルでコントロールしなければ気が済まないという点です。

このような特徴は,親子関係においても例外ではありません。むしろ,親子関係というのは親と子だけで完結する閉鎖的な関係で,大人対子どもと力関係も明白であることから,このような傾向は一層強くなります。そのような関係の下では,親は皇帝であり,子どもは奴隷でしかありません。親が子どものことを人格をもった一個人とみることは期待できず,子どもにとっては皇帝の命令に盲従することが求められます。

このような不健康な親子関係においては,無理して子どもを親と面会させることは,子どもに奴隷としてのトラウマの日々を思い出させるとともに,自分の気持ちが尊重されないということでの無力感を覚えさせ,かえって発達において重大な支障になるものと考えます。

少なくとも,子どもがある程度の年月を経て,しかるべき発達課題をクリアした段階で面会交流を試みるという方法も選択肢があるべきだと考えます。

ダン・ニューハースは「不幸にする親 人生を奪われる子ども」(講談社+α文庫,訳:玉置悟)の「親との関係の持ち方を変えるには」という章の中で,上記のような不健康な親子関係から子ども(であった人)の人格を取り戻す方法として,親との間で健全な境界線を引くことの重要性を主張します。そして,この境界線の引き方として,「たとえば,親と会うのがあまりに苦痛な場合は延期してもいいですし,どうしても会わなくてはならない場合には,会ってもあまり口をきかないでいることもできます。相手がどう思おうが,何を言おうが,心を遠ざけてしまうこともできます。しばらく接触しない“試験期間”を設けることもできます。いわば親から休暇をとるようなものです。そうしたからといって,そこで永久に関係を断つわけではありません・・・コントロールばかりする親のいる家で育った人にとって,精神的な生存を守るために行動できるようになることは,人生の大きな転機となります。それはまた,「一人の人間として生きている自信」をつけることになるでしょう。」(以上,同著194ページ以降を引用。)と述べています。このアドバイスは大人となった子どもに対するものとしてされたものですが,この「試験期間」や「休暇」はつい最近までコントールばかりする親の下で育ってきた子どもにこそ,重要な意味をもっていると思います。

ここで,面会交流の実務について私の感想を述べますと,実務では面会交流を積極的に認めていく方針であり,私自身,その方針自体は歓迎すべきものであると考えています。

しかし,実際の面会交流の審判に当たっては,現在は面会交流を認める時勢の流れがあるから,とりあえず何とか面会交流を実現させようというような傾向がないとはいえません。面会交流自体が「目的」化してしまっていると感じることがあります。

この点については,DVに関する指摘ではあるものの,「性と法律―変わったこと,変えたいこと」(角田由紀子著,岩波新書)は90ページ以降において,「調停委員や家裁の裁判官は,子どもの被害について教育を受けているのだろうか。子どもには親に会う「義務」があるかのごとき発想の人に出会う現場にいる人間としては,心許ないところがある。子どもにとっては,一生の方向に関係する問題であることが,もっと認識されるべきである。それがなければ,場合によっては,家裁が暴力の連鎖の維持に手を貸すことになるのではないかと思う。家裁は,ドメスティック・バイオレンスにさらされた子どもが受けた被害をもっと理解する必要がある。それには,法律家の知見だけではあまりにも限界がある。その限界をわきまえて,たとえば小児精神科医など子どもの現場に詳しい専門家の意見を聞き,関係する分野の人たちとの連携と交流を図るべきであろう。同じことは,家族に関する事件を扱う弁護士にも当てはまることは,言うまでもない。」(以上,同著を引用。)という御指摘があり大変参考になります(もちろん,現場の関係者の方々にはそれぞれお忙しい中様々なことを考慮していただき,その活動には敬服しております。)。

離婚後における非監護親と子ども関係は,それが円満であれば面会交流を実施することに全く異存はなく,私自身,そのような事案であれば,面会交流を実現するべく監護親にその意義を丁寧に説明しています。

しかし,頑なに子どもが面会交流に嫌悪感を示すような場合においては,私自身,面会交流を実現することが子どもの人格形成や発達に悪影響を与えないかと自問自答します。それでも実務的には面会交流を認める傾向があることを監護親に説明しなければならないときには大変な苦悩を抱かざるを得ません。

先の角田由紀子氏の著書にもあるように,子どもには親に会う「義務」があるわけではありません。このことからすれば,飽くまで面会交流は子の人格形成,発達促進のために行われる一手段であること,そのため,面会交流の実施に当たっては子どもの意見を第一に尊重すること,逆に非監護親の要望などは補充的な考慮要素にとどめられるべきではないかと思います。

その意味で,今回の決定がどのような経緯でなされたものであるのか,私自身もよく吟味し,これから先の事案を扱う際の参考としたいと思います。

なお,今回の記事を作成するに当たって,上記の書籍以外にもスーザン・フォワード著の「毒になる親 一生苦しむ子供」,クレイグ・ナッケン著の「やめられない心 毒になる「依存」」(いずれも訳:玉置悟,講談社+α文庫),外山紀子・外山美樹著の「やさしい発達と科学」(有斐閣アルマ),片田珠美著の「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)を参考にしました。いずれも親子関係や子どもの発達の問題について易しく記載されているので,皆様も一度ご覧になることをおすすめいたします。

依存症と弁護士業務

弁護士業務は依存の問題と関連があるものが少なくありません。例えば刑事事件ではギャンブル依存が原因の窃盗や薬物犯罪における被疑者・被告人の弁護人として活動しますし,民事事件でもやはりギャンブルが原因となった借金の債務整理を行うことで各種の依存の問題に接することになります。

個人的な感覚としては,鹿児島ではギャンブルとアルコールで依存に苦しむ方が多い印象があります。もしかしたらパチンコが盛んだったりお酒好きな県民性が関係があったりするのかもしれません。

いずれにしても,依存症の問題を抱えている場合には事件処理にも一定の配慮が必要です。なぜなら,弁護士による介入が逆に依存の問題の根を深くする可能性があるからです。

例えば,ギャンブルが原因で自己破産するに至った場合について考えてみます。

本来,ギャンブルで借金を繰り返したようなケースの場合には,自己破産を申し立てても免責が不許可になり,結局借金を返済し続けなければならないとされています。しかし,実際の運用上は,破産者の立ち直りに期待して高い割合で免責が認められ,借金返済の負担から解放されています。

問題は,ギャンブル依存の問題をそのままにして借金返済の負担だけなくすと,かえってギャンブル依存の問題の根を深くしてしまうということです。すなわち,ギャンブルから足を洗わない状態で突然,借金がなくなるといった状況は,本人のギャンブルに対する危機感を薄くさせ,再びギャンブルにはまらせてしまう可能性を高めてしまいます。

このように,本人のことを助けるためにしたことが,かえって本人の抱える依存の問題を悪化させる事態を招くことになります。

そのようなことにならないために,依存の問題を抱えている方に対しては速やかに精神保健福祉につなげることが必要となります。

具体的には,依存症の専門の病院での治療を勧めたり,アルコール依存症の場合にはAA(アルコホリック・アノニマス)や断酒会,ギャンブル依存症の場合にはGA(ギャンブラーズ・アノニマス)などの自助グループを紹介したりすることになります。また,依存症について書かれた書籍をお貸しすることもあります。

一般的に,依存症の方は自身が病気であることを認めたがらず,治療は困難であるといわれています。しかし,弁護士が必要となった時点では依存の問題がかなり深刻化しており,本人もそのことを自覚しています。そのため,これらの制度や依存の仕組みを依頼者に説明すると,依頼者の方も真剣に話を聞いてくださります。実際に自助グループに参加してアルコールやギャンブルをやめたという連絡を受けることも少なくありません。そのようなときは弁護士をやって良かったと思います。

このように,弁護士は依存症の問題解決にとって重要な役割を担うことができる仕事です。現時点では,この点について弁護士側が意識することは少ないようですが,より多くの弁護士がこの問題を自覚して活動すれば救われる方々も増えるのではないかと考えています。

宮崎に行って参りました

一昨日の2月7日,九州弁護士会連合会(略して九弁連)の協議会に出席するために宮崎県に行って参りました。

弁護士たちは,日常的な法律業務以外にも人権保障や社会貢献を推進するためにいくつもの委員会を開催しています。私も九弁連では「高齢者・障害者支援に関する連絡協議会」に所属しており,2か月に1回くらいのペースで福岡県をはじめとする他県に行っています。

今回は,宮崎県弁護士会内において協議会があり,その後,宮日ホールにてシンポジウム「高齢者を支える権利擁護の仕組みを考える~日常生活自立支援事業から見える展望と課題~」が開催され,私も出席させていただきました。

ここでは具体的なシンポジウムの内容の説明は割愛します。しかし,判断能力が不十分な方々に対する権利擁護のあり方の実情や課題について分かりやすくかつテンポ良く議論されており,非常に充実したシンポジウムだったと思います。

日常生活自立支援制度は利用者本人が自身の意思に基づいて契約を締結し,普段の日常生活について援助を受ける制度です。その段階で弁護士が関与することはあまり多くないため,多くの弁護士にとってはそれほど縁がある制度ではないかもしれません。

しかし,高齢者や障害者の方々のクオリティ・オブ・ライフを実現するためには,我々弁護士も,成年後見制度と同じくらいに制度の内容を理解し,活用する必要があることを改めて確認することができました。

余談ですが,その夜にいただいた地鶏のたたきとチキン南蛮は絶品でした。鹿児島にも地鶏はありますが,やはり鶏肉の本場は宮崎なのだと再認識した次第でした。